エピソードから生まれた みんなのふなぐち物語
Episode.1妻との乾杯
Episode.2徹夜の夜
Episode.3お茶会での一盃
Episode.4四十年前の月
Episode.5ふなぐちの部屋
Episode.6一缶一会
Episode.7ワンスモアふなぐち
Episode.8一枚の名刺
Episode.9壁ぎわの癖
Episode.10息子の帰省
Episode.11越後からの客人
Episode.12ふなぐちと四国へ
休日の昼下がり、気もそぞろで玄関先へ行ったり来たりする泉 真一に、江ノ島のサーフィンから帰って来たばかりの息子の浩史が、金色のふなぐち菊水一番しぼりの缶を開けながら訊ねた。
「父さん、誰か来るの?」 それも耳に入らないようすの真一が、玄関の扉を開けながらつぶやいた。
「……菊水さん、道に迷ってるんじゃねえかなぁ」 どんよりと曇った空もようが、三十年前によく訪れた新発田の空に似ている気がした。ふと、当時の職場の同僚の顔が脳裏に浮かんだ。
真一はかつて、籠原にある東北火力発電所へたびたび出張し、近隣の新発田市に投宿した。 その駅前ホテルには真一と同じように発電所へ出張している男たちも滞在し、顔を合わすたび親しくなった。新潟の長岡市からやって来ている斉藤 平蔵も、その一人だった。
「そう言えば、あのホテルのロビーに、ふなぐち菊水一番しぼりの自動販売機があったな。斉藤君と一緒に、冷えた金色のアルミ缶を風呂上がりに買ったなぁ。ふなぐちファンになったのは、あれからだよ」
独りごちる真一の肩越しに、もう一度、同じ質問が飛んで来た。 「ねえ、誰が来るのかって訊いてんだよ」 「おっ、おお! びっくりした。今日は、新潟の新発田にある菊水酒造から社員さんが来るんだよ。四十周年のキャンペーンで、お客さんの家へ記念品を持って挨拶に回っているそうだ」 思わず飛び上がった真一だったが、我に返ると、手にする菊水酒造からの手紙を浩史に渡して門扉の外を見回した。
紙面を読む浩史が、感心しながら言った。 「斉藤さんと米田さんか……へぇ、二人も来るの? 律儀な会社だなぁ」 「ああ、俺が新発田へ行ってた頃から社屋も立派で、白亜の城って感じだったな」 記憶をたどる真一が、斉藤の名前に気づいた。
「あの時の同僚も斉藤、今日、来る菊水の社員さんも斉藤か……新潟には、斉藤姓が多いのかもな」 気に留めるでもなく辻角へ目を向けた真一の前に、二人の若者が現れた。 手に提げている紙袋の菊水のロゴマークに、社員だと判った。
「こんにちは、泉様でしょうか。菊水酒造と申します」 二人は背筋をピンと伸ばして深々とお辞儀をすると、男性が斉藤 大祐、女性は米田 今日子と名乗った。 かすかに憶えている新発田訛りが懐かしく、真一は 「お待ちしてましたよ。さあさ、どうぞ遠慮なくお上がり下さい」 と浩史を押しやって二人を玄関へいざなった。
座敷で向かい合った斉藤と米田は真一にふなぐちのご愛顧への謝辞を述べると、四十周年を記念して特別につくられたという、ふなぐちの発売当時のデザイン缶を渡した。そして菊水酒造や新発田の町の今を語り、真一に郷愁を呼び起こした。
胸に熱いものが込み上げる真一は二人の前でさっそく記念のふなぐち缶を開けて、生原酒をひと口飲んだ。フルーティな香りと濃厚な旨味が、いっきに饒舌を誘った。
「あの頃、出張に行くと、たまに黒川の油田や村上にある瀬波温泉にも足を伸ばしたのですよ。それと、田園風景の中を車で走って行くと見えて来るのが、月岡温泉。通称『美人の湯』でしたっけ。ああっ、温泉の硫黄の匂いが甦ってきますねぇ」 ところが斉藤も米田も、返事の歯切れが良くない。間延びする雰囲気に、米田が申し訳なさげに口を開いた。
「実は、私どもは新発田市出身ではないので、あまり詳しくないのです。申し訳ありません」 米田は、隣の新潟市から菊水酒造へ通っていると言った。
「なるほど、確かに、新発田の方ばかりじゃないのも道理ですよね。じゃあ、斉藤さんはどちらから?」 「はい、私は新発田に単身で暮らしていますが、出身は長岡です」
ほころんだ斉藤の目尻が、真一の記憶の奥に立っている男の顔に重なった。 真一は、無意識に訊いていた。 「……ほう、長岡ですか。あのう、つかぬことを伺いますが、お父様のお名前は何とおっしゃいます?」 「斉藤 平蔵です」 「へ、平蔵……お仕事は何をしてました?」 「電力関係の企業でした。でも、すでに定年退職をしましたが」 「籠原にある東北火力発電所へ、よく、いらしてなかったですか?」 アルミ缶を手にしたまま真顔になっていく真一の質問に、戸惑う斉藤は小さく頷いた。 そして、こう付け加えた。
「私の父はその仕事で新発田に出張し、ふなぐちを知り、以来、大ファンになりました。そのおかげで、私は菊水酒造に入社したくなりました」
しんみりとする座敷に気を回した浩史が茶菓子を運んで来ると、絶句している真一の横に座って、斉藤と米田に礼を述べた。 「遠路はるばる、茅ケ崎までいらしてくれて、ありがとうございました。あらためて四十周年、おめでとうございます」
「恐れ入ります。これもひとえに、お客様の御愛顧のおかげです。泉様、ありがとうございます。 揃って頭をさげる斉藤と米田に、真一はアルミ缶を見つめたまま、つぶやいた。
「四十年目のありがとうか……いや、こっちこそ、三十年目のありがとうだよ」 そして斉藤に満面の笑みを見せると、かつての平蔵との仲を嬉しげに告げ始めた。
(了)