エピソードから生まれた みんなのふなぐち物語
Episode.1妻との乾杯
Episode.2徹夜の夜
Episode.3お茶会での一盃
Episode.4四十年前の月
Episode.5ふなぐちの部屋
Episode.6一缶一会
Episode.7ワンスモアふなぐち
Episode.8一枚の名刺
Episode.9壁ぎわの癖
Episode.10息子の帰省
Episode.11越後からの客人
Episode.12ふなぐちと四国へ
冷え込む夜風が、吉祥寺駅へ向かう人たちの足元に枯れ葉を吹き寄せていた。 肩をすくめるサラリーマンたちの中で、久しぶりに武蔵野市内の得意先回りを終えた小川遼次は、交差点に建つ古いビルをちらと見上げた。そこは、かつて遼次が勤めた酒類卸の会社である。
玄関の掲示板には、金色のアルミ缶を掲載したポスターが貼られ、ふなぐち菊水一番しぼりの四十周年を告知していた。遼次はその会社で初めてふなぐちに出逢い、爾来、ずっと愛飲している。
「……あの部屋、まだ使ってるのかな」 赤信号に足を止めた遼次が、つぶやいた。細める視線の先のビルには小さな窓があって、部屋の明かりがやたら強く見えた。 そこは営業も酒もド素人だった若造の遼次が、先輩や同僚たちと仕事上がりに語り合った部屋だった。いわば憩いの場であり、酒道場のような空間でもあった。
「いつもコンビニへ、酒のつまみを買いに走らされたな……」 赤から青に変わる信号機の色も忘れて、遼次は苦笑いしながら当時を回想した。 その時、遼次の肩越しに太い声が聞こえた。
「小川、小川じゃないか?」 振り返ると、丸い顔の鬢に黒メガネの縁を食い込ませているスーツ姿の男が、ビルの入り口に立っていた。その小太りの男は酔いのまわった赤い顔で、右手には金色の缶を握っていた。
遼次は、そのアルミ缶が自分のお気に入りであるふなぐち菊水一番しぼりと察したとたん 「あっ! お前、工藤かよ?」 と声を上ずらせた。
卸会社を去って二十年余り、ほとんど思い出すことがなかった同期の工藤の顔と名前が、忽然として呼び起こされたことに遼次自身、いささか驚いた。 それは工藤も同じだったようで、二人は一瞬、まじまじと顔を見合わせた。
「生きてたか。それにしても、小川は若いなぁ」 工藤は人の良さげな笑みを浮かべると、ビルのショーウインドウに写っている二人の姿を見比べた。 そのおだやかな目元に、若かりし彼の面影を見つけながら遼次は答えた。
「でもないよ。見てくれだけで、中身はすっかり中古品だ。でも、お前あいかわらず、ふなぐちを飲んでんだな」 「ああ、ってことは、お前もやっぱりか。ふなぐちって、俺の原点なんだよ。仕事も人生も……おい、 ちょっと付き合えよ」 工藤は残っているアルミ缶の生原酒を飲み干すと、遼次の肘をつかんでビルの中へ入った。
「おっ、おいっ! 工藤、いいのかよ。昔のことにしたって、俺は、ここを辞めたんだからさ」 「大丈夫だよ。こう見えても俺は今、取締役だ。お前は、その客人だよ」 「えっ! そ、そうなのか……じゃあ、遠慮なく」
驚いて生返事をしながらも、遼次は玄関に入った工藤の背中が、あの小部屋へ向かっていると感じた。 数人の社員が座る事務所の商品棚や応接セットの変わらない風景はどこかしら懐かしく、遼次は癒されるような気分だった。
「お前とここへ入社した頃、ふなぐちと出逢ったんだ。あの部屋で、よく飲んで話しをしたな。すぐ酔えるし、安月給の俺たちにはもってこいの生原酒だった」 自然と口が弾んでしまう遼次は、廊下の先にある小部屋が近づくにつれ、さらに胸を高鳴らせた。 そして、工藤の手が小部屋の扉を開けた。
「この部屋、今は、ふなぐちの間って呼んでるんだ。むろん、俺たち、社員だけのネーミングだがな」 扉の向こうから一気に金色の光があふれて、遼次の視界をまばゆく光らせた。 壁際に置かれた冷蔵ケースには整然とふなぐちのアルミ缶が並び、部屋の明かりを跳ねていた。
その前に置かれた真新しい応接セットで語り合う若い男たちが、工藤と遼次の姿を目にするや、手にしているふなぐちの缶をテーブルに置き、直立不動してお辞儀をした。 当時と変わらない躾の行き届いた社風が、遼次は不思議に嬉しかった。
工藤は席を替わろうとする社員たちをねぎらうと、遼次を窓際の古びた応接セットに座らせた。 そこは、かつて二人の指定席だった。 工藤が冷蔵ケースのふなぐちを取って、遼次に手渡しながら言った。
「あいつらは新人だ。ひょっとすると俺とお前のように、ちがう道を歩く奴も出るだろう……だけど、このふなぐちを一緒に飲んで、人生や仕事を語った日々を忘れて欲しくないんだよ。この酒のおかげで、今日、小川と再会できた。俺は、そう信じるよ」 遼次は頷くだけで、言葉が出なかった。なにも、答える必要はなかった。
二人は息を合わせるようにアルミ缶の蓋を開けると 「おつかれ!」 と短い言葉を重ねた。 あの頃、二人が毎晩のように合わせていた声が、ふなぐちの芳しい香りに包まれていた。
(了)