エピソードから生まれた みんなのふなぐち物語
Episode.1妻との乾杯
Episode.2徹夜の夜
Episode.3お茶会での一盃
Episode.4四十年前の月
Episode.5ふなぐちの部屋
Episode.6一缶一会
Episode.7ワンスモアふなぐち
Episode.8一枚の名刺
Episode.9壁ぎわの癖
Episode.10息子の帰省
Episode.11越後からの客人
Episode.12ふなぐちと四国へ
「親父、ベッドで寝ろよ。風邪引くぜ」 夢うつつの耳元で聞こえた声に山瀬 正樹が目を開けると、息子の一樹がスーツ姿であきれていた。「うっ、う~ん、もう朝か?」 「ちがうよ、まだ夜の11時。俺は、今日も残業だったの。いいねぇ、定年前のオジサンは気楽なもんだ」ダイニングで眠り込んでしまった正樹を、一樹は鼻白むように一瞥して自室に入って行った。通信業界のサガとはいえ、社会人2年目の一樹が彼女とデートする時間もないほど仕事に忙殺されていると妻からは聞いている。 その妻や高校生の娘も、すでに寝床に入ってしまったらしい。
テーブルのふなぐち菊水一番しぼりのアルミ缶だけが、正樹を見守るようにポツンと立っていた。中身はすでに飲み干して、空っぽだった。 「今夜も見捨てられたか。お前だけだな、ずっと俺のそばにいるのは。なぁ、ふなぐち君」 正樹は生原酒のアルコールの余韻に包まれ、感傷的なセリフが口を突いて出ると、さらに独りごちた。
「デジャヴかなぁ……こんな未来を、あの頃、見ていた気がするよ」 今日までの来し方への心地よい疲労感のような、一方で、やり残しを引きずる寂寥感のような。60歳を実感していない正樹の心象が、そう言わせたのかも知れない。酔って話しかける金色のアルミ缶には、はにかんだ表情が映っている。その目じりのほころび方は、40年前の彼のものと同じだった。
パーソナルコンピュータと情報化社会がようやく世間に一石を投じたその頃、正樹はソフトウエアの開発やメンテナンスを担当する、駆け出しのエンジニアだった。 新たなソフトの開発業務が佳境を迎えると、連日の徹夜仕事は当たり前。毎月の残業は、軽く150時間を超えていた。幾日も会社に泊まり込み、夜明け前までコンピュータのディスプレイにかじりつく毎日だった。深夜の思案投げ首にひと区切りをつけ、スタッフが交代で買出しに行く夜食と酒が楽しみだった。
コンビニや24時間スーパーなど皆無な時代だったが、ふなぐち菊水一番しぼりを誰かが買っていた。当時には珍しいアルミ缶の地酒で、その風貌だけでなく、二十度もあるアルコール度数、パンチの効いたコクとうまみに、正樹のチームの面々は眠気を吹っ飛ばされるほど感動し、一夜のうちにファンになっていた。
「そう言えば、あの頃、酒屋の自動販売機でふなぐち菊水を売ってたなぁ……深夜の買出し、助かったんだよなぁ。部下の奴らも、ふなぐち飲めるから、残業するのが楽しみだなんて……徹夜のガソリン代わりだって先輩もいたよなぁ」 水の底からユラユラと浮かび上がるような記憶に、正樹は年甲斐もなく嬉しくなって、語気を高くした。すると、肩越しに声が聞こえた。
「おかげさまで40周年か……ふなぐち菊水一番しぼりって、親父が成人して酒を飲み始めた頃、デビューしたんだね。いわば、同級生か。それで、さっきの独り言を納得できたよ」 振り向くと、一樹がため息とも感心ともつかない表情を覗かせていた。 「一樹、盗み聞きはよくないな」 照れ隠しにたしなめる正樹の横へ、一樹が座り込み 「じゃあ、盗み酒はどうだよ?」と右手をテーブルに乗せた。 そこには、冷蔵庫の奥にあるはずの黒いふなぐちの薫香缶が握られていた。 「……お前に飲めるのか? この生原酒は、けっこう効くぞ」 一樹を冷やかしながらも、まんざらでもない面持ちの正樹だった。
その声に答えず、一樹はクリッと心地よい音を立てて、アルミ缶を開けた。一樹の口が酒に溢れんばかりのアルミ缶を迎えにいくと、華やかでフルーティな香りがダイニングに広がった。 「徹夜の友か……親父、若い頃の仕事は大変だったろうけど、いい時代だったね。こんなに美味しい酒を職場で仕事中に飲めるなんて、ありえねえよ」
「確かに、そうだな。皮肉だが、日本のモラルが良くなったってことか……でもなぁ、俺は、あんな温もりのある世の中が好きだったよ。ふなぐちも、あの頃から何も変わっちゃいない。そのままのうまさだ……徹夜どころか、俺の人生の友だ」 「まだ、酔ってるねぇ。じゃあ今夜は俺も、徹夜の友になってあげるよ」 一樹の声で、黒いふなぐち缶と金色のふなぐち缶が乾杯をすると、正樹は満足げにつぶやいた。 「ふなぐち君、40周年おめでとう」
(了)