エピソードから生まれた みんなのふなぐち物語
Episode.1妻との乾杯
Episode.2徹夜の夜
Episode.3お茶会での一盃
Episode.4四十年前の月
Episode.5ふなぐちの部屋
Episode.6一缶一会
Episode.7ワンスモアふなぐち
Episode.8一枚の名刺
Episode.9壁ぎわの癖
Episode.10息子の帰省
Episode.11越後からの客人
Episode.12ふなぐちと四国へ
ヒグラシの声をかき消した激しい驟雨が去ると、川口紀子は縁側から旅館の庭を眺めていた。
雨の波紋の残る蹲には、緑をしたたらせる孟宗竹がうつろっている。小さな宿だが、純日本風の温泉旅館で一人旅の紀子には似合っていた。
新発田へ旅したのは、かつて茶道を習った恩師・若月しず子の墓参を思い立ったためだった。
二十七年前、新卒採用の教員として新発田に単身赴任した紀子は、こぢんまりとした城下町の散策を数週間で終えると、休日の時間をもてあました。
そんな折、石州流の茶道教室を知って、習い始めたのだった。
厳しい茶道師範の居住まいよりも、気さくなおばあちゃん。そんな若月しず子の人となりに触れ、紀子は足繁く教室へ通った。
時には道筋を変え、閑静な住宅地やひっそりとした路地裏をめぐるうちに、新発田の町には菓子舗が多いことに気づいた。
「若月先生。新発田の町には、お菓子屋さんがたくさんあるんですね」
「そうなの。教室でお出ししているお茶菓子も、すべて新発田のいろいろな店の品を選んでいますよ。贅沢な物は少なくて、素朴だけど、味わい深いお菓子があるの」
しず子は紀子に、新発田の茶道は江戸時代から普及したのだと説いた。
新発田藩主の溝口公は徳川家に恭順を示すためにも、芸術にお金を使った。そもそも溝口公は加賀百万石の支藩だった大聖寺のお殿様だったから、茶道に造詣が深く、きっと新発田へお供をしてやって来た御菓子司もいたのでしょうねと、目尻のしわをほころばせた。
その面影が、雨上がりのぬるい風にまどろむ紀子の脳裡に、走馬灯のように浮かんでは消えた。
その時、追憶をさえぎるように、旅館の部屋先から声が聞こえた。
「お客様、ごめんください。女将でございます。夕食のご用意は、何時頃にいたしましょうか?」
薄暮は迫っていたが、紀子には食事よりも先に飲みたい物があった。
それを口に出しかけた時、襖を開けた女性が金色の缶を手にして入って来た。
「それと、これは新発田を代表する地酒『ふなぐち菊水一番しぼり』でして、当館からのサービスですので、どうぞお楽しみくださいませ」
返事もせずに黙ったまま、目を丸くしている紀子に、六十歳前後とおぼしき女将が怪訝な顔をした。
紀子の飲みたかったのは、まさにふなぐち菊水一番しぼりだったし、彼女の面差しや目元が、あまりにも恩師だったしず子に似ていたのだ。
「あの……若月しず子さんをご存知じゃないですか?」
「はっ?……はい、私の母ですが。な、何かございますか?」
女将の首をかしげるしぐさもしず子が教室でよく見せた癖とそっくりで、紀子は無意識に涙があふれ、滂沱していた。一瞬、うろたえた女将だったが、気を取り直したかのように、紀子の背中をさすりながら口を開いた。
女将はしず子の次女で、この旅館に嫁いでいると語った。
「もしかして、母の茶道教室に通われていた方ですか? この、ふなぐちの缶を、母はよくお茶会にも用意していましたから……今も、母の仏前には飾っているんですよ」
彼女の言う通り、かつて紀子はしず子から「今度開かれるお茶会に一席設けるから、遊びにいらっしゃい」 と誘われた。
その場では蒲鉾を肴にして、ふなぐち菊水一番しぼりがふるまわれた。日本酒に縁のなかった紀子は芳しい香りと甘い味わいに感動し、以来、「好きなお酒は菊水です」とぞっこん惚れ込んでいると答えた。
そんな紀子が母親の墓参にやって来たことを知ると、偶然の出逢いに驚きつつ、今度は女将が目元をハンカチで押さえた。
「……新発田の町をこよなく愛した母でした。そして、新発田の文化も。茶道だけじゃなくて、お酒も好きだった。何よりも、人との出逢いを大切にしていました。きっと、あなたとの再会を喜んでいると思います。わざわざ、ありがとうございます」
両手で額づくと、女将は仕事が残っているとことわって部屋を後にした。
一時間後、紀子の夕食が運ばれて来た。そこには、金色のふなぐち菊水一番しぼりのアルミ缶が二つ用意され、しず子の影膳には蒲鉾が用意されていた。
「しず子先生、お久しぶりですね。私、茶道もお酒も、ずっと大切にしています。そして、先生とふなぐち菊水との思い出も……」
暮れなずむ庭にヒグラシが戻って来ると、紀子は生原酒の余韻の中、その涼やかな声に酔いしれていた。
(了)