エピソードから生まれた みんなのふなぐち物語
Episode.1妻との乾杯
Episode.2徹夜の夜
Episode.3お茶会での一盃
Episode.4四十年前の月
Episode.5ふなぐちの部屋
Episode.6一缶一会
Episode.7ワンスモアふなぐち
Episode.8一枚の名刺
Episode.9壁ぎわの癖
Episode.10息子の帰省
Episode.11越後からの客人
Episode.12ふなぐちと四国へ
ようやく秋の夜風を感じるようになった濡れ縁で、羽山 明人は仲秋の名月を見上げていた。 手にしているのは月の色によく似た金色のアルミ缶で、おかげさまで四十周年と書かれたシールを見つめ、ひと口飲んでは庭の虫の音に耳を傾けている。
「お父さん、ほどほどにしとかへんと風邪を引きますよ」 いつものように妻の雅代がとがめたが、今夜の明人は生返事をするでもなく、ふなぐち菊水一番しぼりを味わっていた。
「四十年前の村上の月も、こんなんやったかなぁ」 独りごちる声が笹の葉擦れの音に消え入ると、明人は、ふなぐち菊水一番しぼりを初めて飲んだ日のことを思い出そうとした。 神戸生まれの神戸育ちだった明人は、その頃、勤務している会社の新潟県の村上支社へ単身赴任することになった。
関西人の明人にとって、新潟は遥かな雪国といった印象が強かった。さらに村上市は最北の町で、地名すら聞き覚えがなかった。それでも、江戸時代の文化を偲ばせる城下町の風情や素朴な町並み、水田の原風景に明人は神戸暮らしとちがう、たおやかな心象を抱いた。
ようやく職場に慣れた頃、町の酒屋の店頭で明人はふと懐かしい物を目にした。 「菊水の紋……なんで楠木正成の家紋が、新潟にあるんやろ?」 店先のポスターに、ふなぐち菊水一番しぼりという酒の銘柄とその紋が描かれていた。楠木正成は、明人の故郷である神戸の湊川の戦いで知られる鎌倉時代の武将で、むしろ関西圏の傑物だった。
誘われるように酒屋に入ると、店主は関西弁の明人にどぎまぎしつつも、金色のアルミ缶を手にして、お隣の新発田市にある菊水酒造の生原酒だと紹介した。 そのアルミ缶入りのスタイルにも驚いたが、とにかく、菊水の紋と出逢ったのもご縁だろうと明人は一缶買って、寮に帰った。
風呂上りに、冷蔵庫で冷やしたふなぐちを開けた。途端に華やかな香りが漂って、思わず喉が鳴った。ひと口含むと驚くばかりの旨さとコクが広がり、明人は唖然とした。 神戸育ちだけに、これまでは灘の酒が一番と自負してきたが、ちっぽけなアルミ缶の酒にそれを払拭されてしまった。
翌朝、宿酔もまったくなく出勤した明人は、同僚の佐々木雅代に、昨夜の体験したふなぐちの美味しさを話した。
「新潟は米どころであり、酒どころですから。田舎だと思って、あなどっちゃいけないわよ。そうそう、菊水酒造さんはここから近いわよ。今度ドライブがてら、行ってみますか?」
色白の新潟美人という表現がそのまま当てはまる雅代に、明人はどことなく惹かれていた。 翌週の休日に雅代を伴い、国道七号線を南下して新発田市の加治川を渡ると、左手に白亜の工場が見えた。 屋上には濃紺の看板に、白字で菊水の文字が胸を張っていた。明人は感動するほど美味しかったふなぐちの蔵元を目の当たりにして、嬉しくなった。
その夜、明人は雅代を寮に誘って、ふなぐち菊水一番しぼりで乾杯した。 窓からは満月の明かりがこぼれ、二人の手にする酒の色を美しくかがよわせていた。 その光景が、夜の庭にたたずむ明人の脳裡に髣髴として甦った。思うに、あの頃、ふなぐちは誕生したばかりだったのだ。
「ちょっと、お父さん。もう、縁側で寝そべるんはやめてよ」 今ではすっかり神戸の人になった雅代が、居眠りをする明人の体をゆすった。 回想から呼び戻された明人が、おぼろな意識の中で言った。
「お前と一緒になって、もう四十年にもなるんやなぁ……」 「なんやの、いきなり。どこか、具合でも悪いん? ほら、早う飲んで、もう寝んとあかんよ」 雅代は、酒が半分ほどになっているアルミ缶を明人に手渡すと、廊下を台所へ戻って行った。
明人はその後姿を見つめながら、胸の中で 「ずっと一緒にいてくれて、おおきに」 とつぶやいた。 ふと見ると、あの村上の夜と同じように、アルミ缶の中で金色の満月が揺れていた。 明人は、ふなぐち菊水の五十周年が来たら、その時は自分たちの金婚式なのだと思った。
(了)