エピソードから生まれた みんなのふなぐち物語
Episode.1妻との乾杯
Episode.2徹夜の夜
Episode.3お茶会での一盃
Episode.4四十年前の月
Episode.5ふなぐちの部屋
Episode.6一缶一会
Episode.7ワンスモアふなぐち
Episode.8一枚の名刺
Episode.9壁ぎわの癖
Episode.10息子の帰省
Episode.11越後からの客人
Episode.12ふなぐちと四国へ
「ちょっとお父さん! また空き缶、こんなところに置きっぱじゃん!」 娘の洋子の声がこめかみに突き刺さるほど、今朝の二日酔いはキツイ。 日曜の朝ぐらいゆっくり寝かせてくれ……そう返事することもおっくうなぐらい、ともかくツラい状態の信介だった。
薄目を開けて見ると、壁際に“ふなぐち菊水一番しぼり”の空き缶が、3つ転がっている。 この生原酒をそれだけ飲んだら昨夜の記憶がおぼつかないのは当たり前で、どうやらリビングのソファで眠ってしまったらしい。
「ほんとにもう! だらしないわね。 私、最近になって、お母さんの気持ちがよ~く分かるわ」 ふなぐちのアルミ缶を片づける娘の愚痴が亡くなった妻のしかめっ面を思い出させ、信介の頭痛をまた誘った。 「あたた……もういいよ、洋子。自分で始末するからさぁ。壁にもたれて飲むのは、俺の昔からの癖なんだよ」
座布団をひっかぶって降参していると、洋子が手にする冷たいグラスが信介の火照った頬にさわった。 「ほら、早く起きて。私、掃除機かけちゃうから」 その言葉に、ドキリとした。
新婚時代、妻の和代は宿酔を繰り返す信介にあきれながらも、いくらかの優しさを込めてそう言った。高校三年生になった娘の横顔が、ふと、その頃の妻に重なった。 「はぁ……血は争えんなぁ」
よろよろと起き上がった信介が冷水を飲み干したその時、電話が鳴った。 「もしもし、矢島ですけど。・・・・・・はい、少しお待ち下さい。お父さんによ。青山さんて人」 「青山??」 覚えがないまま出てみると、20年ぶりにかかってきた大学時代の下宿の先輩だった。その甲高い声に、彼の顔がおぼろげながら甦ってきた。
久しぶりの挨拶の後、青山は一瞬、言葉を途切らせた。 「実は……先月、山本が亡くなってな。その半年前に川口も……お前には知らせてなかったんだけど、どうしてるかと思ってな」
その二人ともが、信介の同級生だった。信介の右隣が山本の部屋で、左隣には川口がいた。 まさか信介も? と気になってかけてきた青山は、電話の向こうで胸を撫で下ろしているようで、長い息を吐いた。せっかくの機会だからと近々の再会を約束し、信介は電話を切った。 しばらくの間、忘れかけていた友人たちの表情やしぐさが走馬灯のように頭をめぐり、つくづくと自分の歳と過ぎ去った年月を感じていた。
「大丈夫? 顔色、悪いよ?」 洋子は電話のやりとりを耳にして、うすうす内容を察しているようだった。 テーブルに洋子の置いた空き缶が、カツンと音を立てた。 その乾いた響きは、信介の鼻腔の奥に下宿時代の埃っぽい部屋の匂いを呼び起こした。
「あの頃……ふなぐち飲みながら、みんなで麻雀ばっかりやってたなぁ。山本はやたら強くってさ、川口は堅実な勝ち方で……いつも俺は負けてばっかで、壁にもたれるのが癖だった。でもなぁ、俺の部屋に、な~んかみんな集まるんだよ。こう見えても、当時は『お人よしの信ちゃん』で通ってたしな。そのおかげで酒も強くなったし。今思うと、あれで……」 ふと信介が言葉をためらうと、 「あれで、下宿の壁にふなぐちの缶を並べる癖がついちゃった……でしょ。ねえ、下宿って楽しかった?」 洋子が、鼻先で笑った。
「ああ、その頃の下宿は今の学生マンションとちがって、共同生活みたいなもんでな。食い物も酒も、時には、生活するお金だってお互い助け合ったものさ。だから、“ふなぐち菊水一番しぼり”も、父さんにとって友だちみたいなもんだった」 「……亡くなったお友だちと、一緒に飲んでたの?」 洋子は、空き缶の匂いを嗅ぎながら訊いた。はにかむように、信介は微笑んだ。
「うれしい時、悲しい時、いつもふなぐちとあいつらが、俺のそばにいた」 信介はふなぐちの空き缶を手にすると、壁際へ歩き、小さく壁を叩いた。 心地よい音がした。
「ねえ、お母さん、その話知ってた?」 どこか嬉しげに訊いた洋子も、信介と並んで、缶を鳴らした。 「いや、言ってなかったなぁ。どうして?」 「うん……お父さんを、ちょっとは見直してたかも」 居間の窓から注ぐ朝の陽に、アルミ缶の金色が柔らかに揺れていた。
(了)