エピソードから生まれた みんなのふなぐち物語
Episode.1妻との乾杯
Episode.2徹夜の夜
Episode.3お茶会での一盃
Episode.4四十年前の月
Episode.5ふなぐちの部屋
Episode.6一缶一会
Episode.7ワンスモアふなぐち
Episode.8一枚の名刺
Episode.9壁ぎわの癖
Episode.10息子の帰省
Episode.11越後からの客人
Episode.12ふなぐちと四国へ
お世辞にも上手とは言えない大山晃一様と書かれた茶封筒の宛名に、ポストを開けた晃一はどこか見覚えがあった。それも、ずいぶん昔のことのような気がした。 差出人は山口徹男。その名前の記憶をたどっていると、大学時代の法律相談部の仲間だった男の顔がぼんやりと浮かび上がった。 「あの山口か……すっかり忘れてたな」
玄関を開けながらひとりごちる晃一は、山口の顔つきや低い背丈など、 消えかけの思い出の輪郭をなぞるように思い出した。そして山口がスキーの名手で、 コブだらけのゲレンデを見事に滑降していく後ろ姿だけは鮮明に甦った。
毎年、晃一と山口の加わっていた法律相談部は夏休みになると新潟県の湯沢町で九泊十日の勉強合宿を行い、打ち上げの冬の卒業旅行はスキーで盛り上がった。吹雪の中を突き進む上越新幹線に揺られながら、いくつものトンネルを抜けた。それはあたかも川端康成の名作「雪国」を髣髴とさせる旅で、晃一や山口は酒をグビ飲みしつつ文学ロマンに耽っていた。
少しずつ記憶の結び目がほどけてくる晃一は、ダイニングルームの明かりを点けながら、やけに嬉しかった。ネクタイを外し、封筒を開けようとテーブルに座ると、先に寝てしまった妻の「おつかれさま」のメモ書きの傍に金色のアルミ缶が置いてあった。 すると、晃一の記憶にスイッチが入った。
「そ、そうだ……ふなぐちを初めて飲んだのは、あの合宿の民宿だった。 しかも『この酒は、文句なしにうまいんだ!』とみんなに勧めたのは、山口だったな」
今では、晃一の日々の晩酌になっているふなぐち菊水一番しぼり。毎日、なにげなくこの生原酒を口にし、もう何年になるのかさえ気にしなくなっていた。 晃一は、封を切る前の一通の手紙がもたらしている心の変化に驚いた。そして昂ぶる気持ちで封筒を開けながらも、山口の住所に視線を止めた。
新潟県南魚沼郡湯沢町の文字、それにも覚えがあった。確か山口の家は千葉市だったはずで、仕事で転勤する土地柄じゃないし、ひょっとしてこれは、あの民宿の住所じゃないかと胸騒ぎがした。
喉が渇いてくるのを感じた晃一は、ふなぐちの蓋を開けた。いつもは気に留めないキャップの音が耳奥に響いた。ひと口、かぐわしい香味と濃厚な甘さを飲み込むと、便箋には、熱くなる晃一の頬をさらに火照らせるような文面が綴られていた。
前略
大山晃一 殿
ずいぶんとご無沙汰しています。かれこれ、二十六年になるかな。先日、大学の卒業者名簿を手に入れ、君の住所を知り、この手紙を書いています。
おそらく、僕からの唐突な手紙に驚いたでしょうが、きっと僕の差し出した住所にも、君はもう気づいたことと思います。お察しの通り。そうです。僕は今、あの頃、僕たちの法律相談部が定宿にしていた湯沢の民宿に家族とスキーに来ています。そしてみんなと徹夜で猛勉強し、雑魚寝同然で過ごした部屋で、この手紙を綴っています。ここに来ている理由は、今、僕が筆を走らせつつ飲んでいる、ふなぐち菊水一番しぼりにあります。
酒ってのは、不思議なものですね。あんなに学生時代に親しかった友人たちを、いつの間にか、僕は忘れかけていました。それを教えてくれたのは、ふなぐちの四十周年キャンペーンでした。 昨年、キャンペーン中のキャップに、往時のヒットソングの歌詞が掲載されていました。
今日の日はさようなら……いつまでも絶えることなく友達でいよう……それを読みながら、酔った僕の胸に去来したのは、大山君やみんなと過ごしたこの民宿での最高の時間と酒の思い出でした。
夏の合宿では星空を仰ぎながらふなぐちの缶を傾け、冬の卒業旅行ではつららの下がった窓の外に置いて冷やし、雪明りを楽しみながら飲みましたね。
今夜はそれを妻や息子たちとやりながら、みんなの思い出を肴にふなぐちを味わっています。 それを無性に伝えたくなって、この手紙を君に書きました。ただ、それだけですが、僕にはとても大切な手紙になりました。 これからも、ずっと大山君との思い出を忘れません。
草々
晃一はしばらくの間、以心伝心したかのような山口からの手紙を何度も読み返した。 そして、興奮した気持ちがようやく落ち着いてくると、金色の缶のキャップをもう一度しめて、寒風にさらされているベランダのテーブルに置いた。
窓から吹き込む冷たい夜風に、起きてきた妻が 「こんな時間に、何やってんの?」と寝ぼけ眼で訊ねた。 晃一は、遥かな北の夜空を見つめながらつぶやいた。 「なあ……家族で湯沢へスキーに行かないか?」 寒風に冷やされるふなぐち菊水一番しぼりが、その声を静かに聞いていた。
(了)