エピソードから生まれた みんなのふなぐち物語
Episode.1妻との乾杯
Episode.2徹夜の夜
Episode.3お茶会での一盃
Episode.4四十年前の月
Episode.5ふなぐちの部屋
Episode.6一缶一会
Episode.7ワンスモアふなぐち
Episode.8一枚の名刺
Episode.9壁ぎわの癖
Episode.10息子の帰省
Episode.11越後からの客人
Episode.12ふなぐちと四国へ
「ふなぐちさん、今日もありがとう!」 物静かなテーブルに、金色のアルミ缶を重ね合わせる小さな乾杯の音が響いた。それは、光男と妻の幸子の合言葉のようなものである。 二人きりの晩酌がごく当たり前になって、今日でちょうど一年になる。光男はふなぐち菊水一番しぼりを口にしながら、感慨深げに、壁へ掛けた写真フレームを見つめていた。そこには、一人娘の麻里の結婚写真が掛かっている。
「顔を合わせていないと、月日が経つのって早いものねぇ……ご近所さんみたいに、たまには車で帰って来られる場所に住んでいる娘さんが羨ましいわ」 幸子の愚痴は自分だけでなく、光男の気持ちを察したものだった。 去年の初夏、光男夫婦の暮らす群馬県には、おいそれとは帰れない鹿児島県へ、麻里は嫁いでいた。
「あいつ、ふなぐちを飲んでるかな。なにせ鹿児島は、焼酎の国だからね」 光男が一抹の寂しさをはぐらかすかのようにアルミ缶をあおると、生原酒のフルーティな香りが夫婦の間に漂った。それは数年間だけ、ふなぐちを一緒に楽しんだ麻里の残り香のようなものだった。 妻の幸子は、元々、日本酒をそれほど飲まなかった。しかし六年ほど前、二十歳になった麻里が女子大の友人と新潟へ旅をして、土産に買って帰ったふなぐち菊水一番しぼりを口にした途端、 「えっ、なに! なに! これって本当に日本酒なの? すっごく、美味しい!」 幸子は、麻里が腹を抱えて笑うほど、素っ頓狂な快哉を叫んだ。
それ以来、麻里と親子してふなぐちファンに変身した幸子は、光男の酒癖を諌めるどころか、スーパーマーケットでは真っ先に金色のアルミ缶を買い物かごに入れていた。 「……早いと言えば、お父さんも定年まであと三年ね」 唐突な幸子のつぶやきが、光男の追憶を止めた。頬杖を突いた妻の顔は、ほんのりと朱色に染まって、目尻のシワが二つちがいの年齢を今更ながら感じさせた。 「あっという間だろうな、三年なんて」 生返事をしつつ、光男は娘がいなくなった虚しさの反面、これまで元気で支えてくれた妻との日々を顧みた。
想えば、手作りの弁当で送られ、職場では管理職としてトップにあおられ青息吐息、部下には給料カットで恨まれる灰色の日々もあった。だが、ふなぐち菊水一番しぼりと出逢ってからは、光男も幸子も、胸を張っているような黄金ラベルを見ると力が湧いた。なによりも、目に入れても痛くない麻里が初めて飲んだ日本酒である。その時のアルミ缶は、愛娘の成長の証としてサイドボードに大切に飾っている。ほろ酔いになった光男と幸子がぼんやりとアルミ缶を見つめていると、突然、玄関のチャイムが鳴った。 宅配便が到着し、それは麻里からのクール便の荷物で手紙も添えられていた。 「何かしら……あら、ふなぐちよ」 「どういうこった?」 包みを開けた幸子の不審げな顔が、麻里の手紙を読むや、みるみる瞳を潤ませた。そして笑い泣きする幸子から、光男は便箋を受け取った。
前略 お父さん、お母さん
お元気ですか。私もようやく鹿児島の生活に馴染みました。 嫁ぎ先の家族や 親戚も、皆さん、優しい方ばかりですから安心してね。 ちなみに、鹿児島にもふなぐち菊水一番しぼりはたくさん売ってますから、 ご安心ください。えへへ! そして、今日は私たち新婚夫婦の結婚記念日! 乾杯のお酒はもちろん、ふなぐちなんだけど、 ちょっとばかり、オリジナル! 去年の結婚式の後で、うちの冷蔵庫で 一年間熟成させた、とっても美味しいふなぐちです。 お父さんとお母さんにも一緒に乾杯してもらいたくって、送りました。 お母さん、もう少しで定年のお父さんをよろしくぅ。
草々
薩摩より、愛を込めて 麻里
読み終えた光男が沈黙すると、エプロンで目頭を押さえながら幸子が笑った。 「また麻里に、美味しいふなぐちを教えられたわね」 「うむ……じゃあ明日から、俺が退職するまで三年熟成のふなぐちを作ってみるか……幸子、それまで、もう少し辛抱してくれ。いつも、感謝してるよ」 麻里から送られたふなぐちのアルミ缶を愛しげに開けながら、夫婦はもう一度、素敵な乾杯を交わした。
(了)