エピソードから生まれた みんなのふなぐち物語
Episode.1妻との乾杯
Episode.2徹夜の夜
Episode.3お茶会での一盃
Episode.4四十年前の月
Episode.5ふなぐちの部屋
Episode.6一缶一会
Episode.7ワンスモアふなぐち
Episode.8一枚の名刺
Episode.9壁ぎわの癖
Episode.10息子の帰省
Episode.11越後からの客人
Episode.12ふなぐちと四国へ
「二王子の雪もそろそろ解ける頃ですよ。そうしたら春も近いです。新発田城の桜もぜひ見に来てくださいね。もちろん花見の酒は、ふなぐちですよ」 車を運転する菊水酒造の営業マンのおっとりした口調に、新発田駅に着いた加山信二は後ろ髪を引かれる思いだった。
降り立った駅舎にそびえる菊水の看板を、白髪まじりの頭に雪をかぶりながら、なごり惜しげに見上げた。今しがた蔵の玄関先で見送ってくれた新潟美人の女性社員が、信二の脳裏でほほ笑んでいた。帰りの特急いなほの時刻を調べてくれたのも、彼女だった。 それは四十歳半ばの信二にとって、忘れえぬ、初めての酒蔵訪問になった。
二十年前、山形の温泉へ旅して、土産物屋で地酒を買った。 それまで飲んでいた日本酒とは別格の旨さに「本物の日本酒って、こんなに旨いのか……知らなかったな」 と信二は独酌しながら同じセリフを何度もつぶやき、気づけば一晩で四合瓶を空っぽにしていた。
翌日から、都内のデパートの日本酒売り場を巡り歩いた。頃合いも良く、新宿にある百貨店の売り場には新酒や初しぼりの幟が立ち、茶色や緑色の一升瓶がひしめくワゴンに信二は胸を高鳴らせた。 次の瞬間、彼の視線は売り場の一画にうずたかく積まれた金色の缶に奪われた。 あたかも黄金のピラミッドのように輝くアルミ缶の山に、地下売り場を行き交う客たちは、誰もが足を止めて驚いた。
「ふなぐち菊水一番しぼりぃ?……な、何だ、これ? 缶入りの日本酒なんて、旨いのかよ?」 訝しげな顔で独りごちる信二に、菊水のロゴを染め抜いた黒い半被姿の若者が近寄った。 「よろしければ、ご試飲なされませんか。新潟県の生原酒です」
菊水酒造 佐藤 の名札を付けた若者は信二の表情に動じるふうでもなく、アルミ缶の酒をプラカップに注いだ。途端にフルーティな香りが漂って、信二の鼻先をくすぐった。
思いのほか芳しい、新鮮な印象に信二はふなぐち菊水に惹かれそうになったが、半信半疑な気持ちから「な、生原酒? そんな鮮度の高い酒をアルミ缶に入れても、大丈夫なの?」と本音を口走った。
「そうおっしゃるお客様は、たくさんいらっしゃいます。でも、実はアルミ缶の方が日本酒の品質管理に向いていると当社は思っております。日本酒は紫外線に当たると劣化して、風味が損なわれます。瓶に色が付いているのは紫外線をカットするためですが、ガラス製ですから万全ではありません。しかし、アルミ缶は100%カットします」 もちろん、それでも生酒はデリケートなので、早めに召し上がっていただきたいと言葉を添えながら、信二にプラカップを手渡した。かすかに、ほんのり黄色がかる生原酒を信二は舌の上に滑らせた。
たちまち鮮烈な旨味とコクが、鼻腔とノドを突き抜けた。 「おっ、おお! これ美味しいよ! パンチがすごいね!」 思わず信二が声を高ぶらせると、佐藤の話しに聞き耳を立てていた客たちの手がいっせいに伸びて、プラカップを奪い合った。それをきっかけに、ふなぐち菊水一番しぼりは、飛ぶように売れていった。
信二も数缶を買い、帰ろうとした時、佐藤は一変した信二の評価と態度のおかげで、様子見をしていたお客様も納得されたと感謝した。そして名刺を差し出すと 「このお酒売り場では、ときどきこうして試飲販売会を行っておりますので、ぜひ、お越しくださいませ」 と丁寧にお辞儀した。
その日以来、信二はふなぐち菊水一番しぼりを晩酌にした。 生原酒の濃密な酔いの中で、信二はふなぐちだけでなく、佐藤の人となりや菊水酒造の姿勢も気に入ってしまった。飾り気のない生真面目で純朴な菊水酒造の心象を、できたての旨味と余韻の中に描いた。 そして、佐藤との再会を心待ちにしていた。
だが、翌月の辞令で信二は長期にわたる中東各国への赴任を命じられ、二十年ぶりに日本へ戻って来たのはつい先月のことだった。
いつしか、ふなぐちも佐藤の面影も記憶から遠ざかっていた。 東京の自宅に帰った夜、信二はドレッサーに洋服を片付けながら、ずいぶん昔のジャケットを見つけた。海外には持って行かなかったツイードのジャケットが、やけに懐かしかった。 もはや胴回りが窮屈になったジャケットに腕を通した時、内ポケットに名刺を見つけた。
「菊水酒造の佐藤……あっ、あの時のふなぐちか!」 信二の記憶の中で、ふなぐちの鮮烈な味わいがほとばしり、佐藤の誠実そうな笑顔がおぼろに甦った。信二はシャツのポケットから佐藤の名刺を取り出すと、スマートフォンで菊水酒造を検索してみた。
「日本のしあわせのそばに」 画面に現れたその言葉に、信二はふなぐち菊水一番しぼりの金色の缶と、人なつっこそうだった佐藤の笑顔を思い出した。鮮明な四季を感じる新発田の原風景にも魅了された。タップしていた指先が、無意識に新発田市で催される「菊水酒造 日本酒の会」の応募ボタンを押していた。
そして今日、信二はいつしか胸の奥に埋めていた菊水酒造の心象を現実の物にしたのだった。 「加山さん。私のことを覚えていてくださって、ありがとうございました」新発田駅を去り際の営業マンが、歳を重ねた目尻のしわをほころばせた。その背広に付けた名札に、佐藤の文字があった。
あの日と変わらない印象の佐藤に胸をつまらせた信二は、ただ頷いただけだった。 特急いなほに揺られる信二は、ふなぐち菊水一番しぼりを味わいながらつぶやいた。 「ありがとう……ひょっとしたら、ふなぐちと佐藤君の名刺が、俺を日本に呼び戻してくれたのかも知れないよ」 信二の胸ポケットに、古びた名刺がしっかりとしまわれていた。
(了)