エピソードから生まれた みんなのふなぐち物語
Episode.1妻との乾杯
Episode.2徹夜の夜
Episode.3お茶会での一盃
Episode.4四十年前の月
Episode.5ふなぐちの部屋
Episode.6一缶一会
Episode.7ワンスモアふなぐち
Episode.8一枚の名刺
Episode.9壁ぎわの癖
Episode.10息子の帰省
Episode.11越後からの客人
Episode.12ふなぐちと四国へ
「国境の長いトンネルを抜けると、雪国だった……か」 夕暮れの越後湯沢に新幹線が近づくと、いつも通りの言葉を健治は つぶやいた。 そして、いつもと同じように、ふなぐち菊水一番しぼりの キャップを開けた。
少しだけちがったのは、それが黒いアルミ缶だったこと。 長岡駅の売店で見つけた新発売の「ふなぐち 薫香缶」に、思わず手を伸ばしていた。
冬の新潟営業所への出張は、帰り道にふなぐちの一杯をしみじみ 楽しめるから引き受けているようなものだった。
車窓から眺める黄昏の雪景色……東京の盛り場で飲む日本酒と、 ひと味もふた味もちがうことに気づいたのは、初めて新潟営業所に出張した6年前だった。
以来、社員の誰もが尻込みする豪雪地への出張を、いつしか健治は買って出るようになっていた。 そのきっかけを作った男の面差しが、おぼろげながら健治の記憶の隅に残っている。
あの日、2メートル近い雪に押しつぶされそうになっていた営業所や、 胸まである道路脇の雪の壁に、東京育ちの健治は唖然とした。 スキー経験もないだけに、慣れない雪道の運転に冷や汗をかき、 長靴を履いてのセールス活動に恥ずかしさも覚えた。 帰りの最終新幹線に乗ると、冷えた体にどっと疲れが押し寄せ、睡魔に襲われていた。
「お隣、よろしいですかな?」 しゃがれた声に起こされると、 白髪混じりの男が目尻をゆるめて笑っていた。
「あっ、すみません。ど、どうぞ」 寝起きの健治はくたびれ果てたスーツ姿で、隣の席にまで 寄りかかっていた。 額には、うっすら寝汗もかいていた。 「ご出張ですか……遅くまで、大変ですなぁ。おっ、ちょっと顔が赤いですよ?大丈夫ですか?」
「えっ、ええ。少し寒気がしてて……新潟は、初めてなもので。 あんまり雪がスゴイので、驚いちゃいました」
「ははぁ、都会の方には今年の雪はちぃとキツイですかなぁ。 わしら地元の者でも数十年ぶりの豪雪ですから。 まっ、そんな時には、うまい酒を飲んでじっとしてるのが一番ですよ」 男は顔をほころばせると、手提げ袋の中から金色の缶と赤い缶を取り出した。
「こいつは、あったまるよ~。生原酒だからね、風邪なんて東京駅に着く頃には忘れてしまうはず。 私も若い頃、信越線の列車で 偶然お隣になった人から頂いて、それからずっと飲んでるんです。 よかったら、一つどうぞ」 男の優しげな表情に甘えて、健治は金色の缶を手にした。
初めて飲む、アルミ缶入りの日本酒だった。 腹の底から温かさと酔いが満ちてくると、お互いの口数もしだいに増えていった。
小千谷市の出身と言う男は、暖冬のせいで雪がめっきり少なくなったとこぼし、 少年時代の雪降ろしの思い出を懐かしそうに語った。 薄暮の中に消えていく雪山の稜線を遠い目をして見つめる男に、健治は垢抜けない人となりを感じた。
「私は、あなたと反対に東京出張が多くて……でも、ようやく今年で定年。 のんびりと故郷で農業をしながら、余生を暮らしたいと思います。 それにこいつがあれば、いつも幸せですよ」 男の頬が、熟成ふなぐちの赤い缶と同じあったかい色に見えた。
ふなぐちの酔いと純朴そうな男との会話が、健治には良薬となった。 そして、うたた寝をしたのか、気づくと列車は上野駅に近づいていた。 男の姿は消えていて、空っぽになったアルミ缶の中に小さなメモが残されていた。
-どうぞ、お大事に。一缶一会をありがとう-
その紙切れを健治は捨てられずに、今でも名刺入れの中に挟んでいる。 「……あの人、元気かな」 ふなぐちを傾けながらそう独りごちるのも、 あれから出張中の癖になっている。
ふいに、肩越しに声がした。 「すみません。お隣、空いていますか?」 越後湯沢から乗ってきたらしい、若いサラリーマンだった。 頭には、うっすらと粉雪が積もっていた。
「ええ、どうぞ……今日の湯沢、寒かったでしょうね」 ほほ笑む健治の手が、鞄の中から、さりげなく黒いアルミ缶を取り出していた。
(了)