日本酒物語

第十話:続く「下り酒」の人気普及

灘で船積みされた酒樽は、大海原を1週間から2週間かかって、江戸の酒問屋が集まる新川(現・東京都中央区新川)に船揚げされました。当時は、京・大坂から地方へ向かうことを「下り(くだり)」と言っていたので、この酒は「下り酒(くだりざけ)」と呼ばれ、1升 200文で引っ張り凧だったそうです。

そんな折りも折り、幕藩体制は衰退して明治新政府が誕生、社会は大きく変動し、デフレも手伝って、さしも隆盛を誇っていた灘の酒造業者も、明治10年代までは一時停滞を続けていました。 しかし、江戸から変わった東京市中の灘酒の人気は衰えることなく広がり、他の地方で造られた酒は「田舎酒」、あるいは略して「田舎」と呼んで、一段も二段も低く見られていました。その頃の記録によると、「下り酒」は1升60銭、「田舎酒」は1升40銭という格差でした。 この人気を背景に、明治20年に入って景気が回復すると、俄然酒造りも活気を呈し、明治18年には24万石だった灘の造石高は、21年には何と34万石になっていました。

日本酒醸造学の夜明け

景気の回復だけでなく、明治20年代は日本酒の醸造に科学のメスが入れられた画期的なときでした。 灘だけでなく、全国各地で酒造家の組合が出来、全国大会も開かれて、醸造技術を向上させようという気運が高まってきました。 これがきっかけとなって、明治37年、東京・王子の滝野川に国立醸造試験所が設置され、付属する技術者の研究団体として日本醸造協会も併設されて酒造りの研究は大いに進歩しました。

何しろ、これまでの酒造りは、すべて長年の経験に頼るだけでした。この頃の酒造りは蒸した米と、米麹と水で仕込み、米麹が米のデンプンをブドウ糖に変え、これを空気中や蔵の中に住んでいる酵母菌や乳酸菌が入ってきてアルコールを造りました。
ところが明治の中頃までは、清酒学者ですら酵母菌の存在を知らず、醪の中で麹菌が糖化作業の途中で糖分をアルコール発酵させる物質に変わるのだと思いこんでいたのです。
この酒造りに科学のメスが入れられ、酵母の存在がわかったのは明治28年(1895)のことでした。

日本酒度プラス15

ところで、明治期の日本酒の味はどうだったか、知りたいところです。記録によると、明治22年から30年代まではプラス15と言う超辛口で、その後も大正期まではプラス10以上が続いています。「太平の世には辛口が好まれ、乱世には甘口が好まれる」と言われていますが、景気回復と酒の味が一致したということでしょう。