日本酒物語

第五話:打ち壊された三万七千の酒壺

栄華をきわめていた藤原氏が衰退して、武士階級が台頭してきた頃から、朝廷の酒造り工房であった造酒司(さけのつかさ)の機能が弱体化して、政府の権力に近かった寺社が麹も酒も造り始めました。

一方、平清盛の日宋貿易(日中貿易)によって貨幣経済が広まり、寺社で作られた酒が商品として市中に出回るようになりました。 平氏が滅びて源氏が天下を取ると、源頼朝は華美な京都を避けて政治の中心を鎌倉に移し、武士たちに質実剛健、勤倹礼節を旨とさせました。
従って、出陣の儀式の酒も質素なものでした。打鮑(うちあわび)と搗栗(かちぐり)と昆布(こんぶ)ときまっていました。これは、「敵にうち勝ってよろコブべし」という縁起をかついだものでした。

打鮑は、アワビの身を細長く切って、薄くのばして干したもので、祝いの席の酒の肴です。搗栗は、皮のまま干した栗を搗(つ)いて、皮と渋皮を取り除いたもので、これも出陣や正月などの祝い肴。昆布はそのまま語呂合わせです。これらを肴に土器(かわらけ)で酒を飲み、これを打ち砕いて出陣したそうです。 頼朝も酒はよくたしなんでおり、中でも新年の「椀飯(おうばん)」は恒例の行事として楽しんでいました。

「椀飯」とは、正月の初め御家人が将軍を招いて盛宴を張る行事でしたが、現在もときどき使われている「椀飯振舞(おうばんぶるまい)」(「大盤振舞」は当て字)はここから出たものです。 質素を生活の指針とした鎌倉幕府は、頼朝亡きあともきびしく武士の生活を律して来ましたが、酒を飲むほどに酔うほどに抑制力をなくし、武士の本分である節度や礼節を乱すものがしばしばありました。

それに、酒に酔いしれていると、いつ寝首をかかれるかもしれないという心配もありました。 折しも建長4年(1252)大旱害になったのを機に、幕府は「沽酒(こしゅ=酒の売買)の禁」を出して、鎌倉の民家にある酒壷を1戸につき1壷だけ残して全部打ちこわすよう命じました。このとき、民家にあった酒壷は合計 37,247壷あったと言います。当時、自家用以外にいかに多くの酒が造られていたかがわかります。

人気高まる「柳の酒屋」

幕府のこういう強権発動にも拘わらず、酒屋はじわじわとその数を増やし、応永32~33年(1425~1426)には洛中洛外で合計342軒の造り酒屋が出来ていました。
そのなかで、五条坊門西洞院に店を構え、門前に柳があった「柳の酒屋」の通称「柳酒」が芳醇無比と言われ、抜群の人気で天下にひびきわたっていました。何しろ、銭百文で柳酒の古酒は酒杓でわずか3杯しか買えないほど高級酒だったと記録にあります。