猪口に浮かした菊の花びらをよけようと、思わず口元をぬらしてそっと袖で拭く。
重陽の日のおだやかな小座敷の風情・・・
九月の異名の「ながつき」は、“秋の夜長”からきたものです。一説によると、九月は収穫期なので「熟月」とか「稲刈月」という呼称もあったそうです。SEPTEMBERも収穫月を意味しています。 夏の間支配していた太平洋高気圧の勢力が弱まり、大陸からの移動性高気圧が次々と日本を通過するようになります。しかし南岸沿いに前線が停滞するようになって、関東から西は秋の長雨シーズンに入ります。この頃、南方では台風が発生して北上し、去年は十本も本土を直撃、前線も刺激されて大雨になり、大変な被害がありました。
昔、魏の文帝の臣下が、帝の命を受けて、薬の水を探しにある山奥へ行ったところ、そこで歳七百歳にもなるという仙人に出会いました。 この仙人は、七百年前、周の穆(ぼく)王に仕えていた慈童(じどう)で、何かのお咎(とが)めでこの山に流罪になって以来、王から下された枕の要文を菊の葉にうつして、その露を吸っていたら、いつの間にかこんなに生き永らえたといいます。慈童自身も自分の長生きに驚いて、その寿を文帝にも捧げたそうです。これは《太平記》巻十三“竜馬進泰の事”に出ている話で、「菊慈童」(観世流以外は「枕慈童」)という題名の謡曲となって知られています。 この故事から、菊の花を浮かべた酒は不老長寿のめでたい酒と言われています。 九月九日は重陽の節句。中国では古来、奇数を陽の数とし、陽の極数である九が重なるめでたい日とされ、旧暦なので菊の季節でもあることから菊の節句とも言いました。この風習は平安時代にわが国に伝わり、宮廷の儀式に取り入れられ、江戸時代になって、五節句のなかでも最も公の行事となりました。この日は、“もってのほか”など食用菊の花びらを二、三枚落として、この風情を再現したいものです。
『月見酒』
旧暦八月十五日(九月十八日)は仲秋の名月です。旧暦では七月を初秋、八月を仲秋、九月を晩秋としています。この夜、軒先や庭にテーブルを置き、お三方に月見だんごを盛り、ススキや秋の草花を供えて、澄み渡る名月を賞でながら酒杯をいただきます。 この日はまた芋名月ともいい、京・大阪では団子と芋を十二個ずつ供え、閏年には十三個にするのが旧家の慣わしだそうです。 あの澄んだ月の光を杯に映しての月見酒。一首、一句、あるいは詩歌、散文が自然と浮かんでくる風情です。
箸は和食には欠かせない食器であり、その箸さばきによって、酒席が美しくも、みにくくもなります。そこで、これだけはしてほしくない箸づかいのいろいろを挙げてみましょう。
『移り箸』
「菜移り」ともいい、一つの肴に箸を付け、続いて別の肴に箸を付けること。これは、先に食べた肴を味わっていない証拠で、亭主にも料理人にも失礼です。一つ肴をいただいたら、一口酒を飲み、じっくり味わってから別の肴をいただくことです。
『込み箸』
口に運んだ肴が大き目のとき、箸の先で口の中に押し込むなど、みにくい食べ方です。
『舐(ねぶ)り箸』
箸についてしまった物を舐めて取ったり、箸の先を口に入れて取ったりすることで、見た目にも汚い食べ方です。
『探(さぐ)り箸』
汁の中の身を箸の先で探すことを言いますが、ついやりがちなので気を付けたいものです。
『迷い箸』
どれを食べようかと、器の上で箸をあちこち移すことで、これもお行儀の悪い食べ方のひとつです。
『空 箸』
肴をはさみかけて途中でやめることで、最も行儀がわるい行為。
『刺し箸』
いも類などを箸で刺して食べることです。男性はやりがちですが、すべってはさみにくかったら、箸で半分に切りましょう。
『秋鯖(サバ)』
これから秋が深まるにつれて、脂がのってきて旨くなります。 産地ではサバを生食する人が多いですが、アレルギーのある方は刺身で食べると腹痛や下痢、じんましんを起こしたりすることがあるので、シメサバにするか、塩焼き、柚味噌煮など熱を加えて味わった方がいいでしょう。「秋サバ嫁に食わすな」という諺は「秋なす…」と同じく、嫁いびりの言葉ではなく、ホンサバは春産卵するので、この時期には子をもっていないので、子どもが授からないといけないという親心から出たものといわれています。
『沙魚(ハゼ)』
ハゼ釣りの季節になります。彼岸前後によく釣れるので、「彼岸ハゼ」とも呼んでいます。釣りたてなら、手間はかかりますが刺身か、薄造りがいいですが、背開きにして中骨と腹骨を取り、天ぷらにするのが普通です。メゴチやキスとともに淡白な好材料です。
『落鮎(オチアユ)』
ついこの間若アユの美しい姿を見たと思ったのに、もう落ちアユの季節です。成長したアユは十月頃産卵期を迎え、下流に下だって産卵します。川を下だって行くので「落ちアユ」と言い、全身が成熟して錆(さび)色になるので「さびアユ」とも呼びます。脂がのっていて、今、メスには腹子がいっぱい入っています。
『下り鰹(クダリガツオ)』
北上して行ったカツオが南下して来ています。脂のなかった青葉の頃にくらべて大分脂がのっているので、食通はこの時期のカツオを喜びます。
『衣被ぎ(キヌカツギ)』
「衣被き」とは、平安時代以来、上流婦人が外出する際、頭から被った衣(衣被=衣かずき)からきた呼び名で、里芋の子芋です。皮がついたままゆでて、皮をむきながら食塩を少し付けていただきます。『月見酒』の項でお話しましたが、箸休めにもよく、素朴な味わいが酒を生かします。
【規格・装丁】A5版上製本 本文204頁 ソフトカバー付
【著者】 國府田 宏行(こうだ ひろゆき)
【編者】有限会社 笹書房
【発行所】菊水日本酒文化研究所
茶道、華道、書道…日本にはそれぞれの技能を通じて人間を磨く様々な「道」があります。かつて、酒にも同様の「道」があったことをご存知でしょうか。 酒道とは、季節を愛で、豊かな心で味わう、そのためのたしなみ方を極める道です。忘れ去られてしまった、この豊かな日本の文化を、今一度思い出してもらいたい。 そんな思いから、菊水酒造の所有する研究施設「菊水日本酒文化研究所」は、このたび日本酒のもてなしの心、生活文化とたしなみ方、酒席のしつらいや作法などについて解説した書籍『酒道 酒席歳時記』を発行しました。 酒道を通して和の文化と粋をたしなめば、酒座はより一層深く、面白くなります。『酒道 酒席歳時記』は、人生に彩りを与える、大人のための一冊です。
購入する作家、生活評論家で書家。
慶應義塾大学在学中から文筆活動に入り、日本経済新聞社「ショッピング」初代編集長を経て、生活評論、食味評論を続ける。
食文化の頂点に位置する日本酒に関心が強く、我が国の酒文化に対する一般認識を高めるべく、現代の「酒道」を確立・指導に当たっている。
代表著書に「地酒風土記-前、後」「東京の地酒」「酒々物語」「日本酒あれこれ問答」などが挙げられる。